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人生朝露

人生朝露

明鏡止水と勝海舟。

--------(引用はじめ)-----------------------
男子ゴルフ:石川、「必要なのは体力と精神力」 全英OP
 【セントアンドルーズ(英国)和田崇】15日に開幕する男子ゴルフの全英オープン選手権に臨む18歳の石川遼が、新たな課題克服を目指している。5月の全米オープン選手権では予選を2位で通過しながら、最終日に崩れて33位に終わった反省を受けて、「今の自分に必要なのは体力と精神力。それを克服するには、メジャーでの優勝争いという経験こそが最高のトレーニングになる」と上位進出を狙う。

 全米オープン最終日を「脈は速まるし、呼吸も浅くなり、走りながらゴルフをしているようだった」と振り返った石川。「いいプレーをしたいと思う自分に違和感があり、自分でストップをかけてしまった」という。今回、目標に掲げるのは「4日間を通して安定したプレーをすること」。メジャーで得た課題を、メジャーで克服してこそ「生きたトレーニングになる」と話す。
-------------------------(引用おわり)-------

>脈は速まるし、呼吸も浅くなり、走りながらゴルフをしているようだった。
>いいプレーをしたいと思う自分に違和感があり、自分でストップをかけてしまった。

Zhuangzi
「古之真人、其寝不夢、其覚無憂、其食不甘、其息深深。真人之息以踵,衆人之息以喉。屈服者、其隘言若哇。其嗜欲深者、其天機浅。」(『荘子』 大宗師 第六)
→真人は寝ても夢を見ることなく、目覚めていても憂いはなく、ものを食べても味を感じず、呼吸は深々としていた。かつての真人はかかとでゆったりと呼吸していたが、今の世俗の人間は浅はかな議論にうつつをぬかして、あえぐようにのどで呼吸している。欲深き者の天機は浅いものだ。

・・・石川遼は、偉いなぁ。彼のプレー中の言葉というのは、荘子の明鏡止水の境地に非常に近いので、嬉しくなりますね。残念ながら、彼は日本人ではなくアメリカ人に精神的な技法を学んでいると思うんですが、自称保守が、耶蘇キチガ○と一緒に曲解しまくった「トンデモ武士道」だの「誇り」だのを叫んでいる間に、かつての日本のこころは、海外に目を向けている人に感じてしまいます。

参照:荘子と進化論 その51。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201005170000/

てなことで、荘子です。

Zen Golf
Dr. Parentという方の書いた「Zen Golf」という本は、日本で言うところの「剣禅一味」の応用編のようなつくりになっていまして、西洋人の禅の理解の深さについて、非常に興味深いものです。安倍晋三の2億倍くらい東洋の文化を理解している本です。

剣術と禅は、江戸初期に沢庵さんと柳生宗矩の間のやりとりに形となって現れるんですが、後に、禅だけでなく老荘思想から取り入れていくというような流れがありまして、中国で言うところのクンフーになっていく過程からはかなり後れを取るものの、身体的技法と精神的技法の両面から、荘子が使われていくという側面があるんです。

参照:武道と田舎荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5013

で、幕末くらいになると、老荘の色が非常に濃厚な人物がわらわらと出てくるんです。たとえば、
 勝海舟。
『心は明鏡止水のごとし、といふ事は、若い時に習つた剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかつた。かういふ風に応接して、かういふ風に切り抜けうなど、あらかじめ見込みを立てゝおくのが、世間の風だけれども、これが一番悪いヨ。おれなどは、何にも考へたり目論見たりすることはせぬ。』(勝海舟 「氷川清話」)

明鏡止水を外交のレベルで使うような人です。どうなるか分からないという状況にどう対応するかは、剣も政治も変わらないわけでして。「氷川清話」は特に老子や荘子の言葉からの引用が多いんですが、勝海舟が言っているように、剣術や禅を学んだ人が、政治に応用する形で、禅や老荘を活用するというようなものがあるんですよ。勝海舟は行住坐臥・モロ荘子ですよね。

竜馬も荘子は好きなので、たとえば、

坂本竜馬。
『成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらう。』

・・西郷についての人物評なんですが、これも荘子の、

Zhuangzi
「大人之教、若形之於影、聲之於響。有問而應之、盡其所懷、為天下配。處乎無響、行乎無方。挈汝適復之撓撓,以遊無端、出入無旁、與日無始、頌論形?、合乎大同、大同而無己。無、惡乎得有有。睹有者、昔之君子、睹無者、天地之友。」(『荘子』 在宥 第十一) 
→大人の教えというものは、影が実体によりそうような、声の響きが共鳴するようなものだ。自分から問いかけずに、相手から問われると答え、相手の意見が出尽くしたところまで配慮する。じっとしている時は音もなく、行動する時は予測がつかない。俗物たちを導きながら、物事の根本に立ち戻り、日月の巡りをも超える、形にとらわれず大同の世界にいる。大同であるが故に無であり、無私であるが故に執着がない。有を見てそれに拘泥する者は昔の君子であり、(物にとらわれない)無を見る者は天地の友なのだ。

おそらく、これだと思われます。司馬さんの言う、事をなす人間の条件、無私です。孔孟ではなく老荘なんですよ。これは知識ではどうしようもない精神状態というか・・自分の感覚では思考経路の違いです。頭の中のサーキットが違う人たちです。竜馬とかスティーズ・ジョブズが言っていることが分からないのは、ある意味当然です。地位とかお金にとらわれては、こういうのが全くみえなくなるように人間はできているんでしょう。幕末にはこの気風が非常に強くて、同じ激動の時代である戦国時代にはあんまりみられないんです。

で、これが、明治まではあるんですが、大正くらいにブツリと切れてしまっているんです。

参照:荘子、古今東西。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5038

「インターネットをするとバカになる」の前が「ゲームをするとバカになる」。で、その前が「マンガを読むとバカになる」で、もっともっと前には「本なんか読んだらバカになる」というようなものがありましたが、そういうものです。

つまらない情報や価値の奴隷になってしまうヤツがいつの世の中にもいるじゃないですか?人間の本質的な要求に根ざさないものにとらわれるというのは、おかしいですよね?今の世の中はその最悪の状態でしょうが、そんな価値観とは違うものがあるんです。一面において間違いなく「愚か」である思想です。でも、愚かでなければできないことってたくさんあるんですよ。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞ。」(『西郷南洲翁遺訓』)

「世間の人も人だ。西洋に行って少しばかり洋書が読め、英語で談判でもできれば、はや今第一の外交家と仰いでいる。上も下も似たり寄ったりのものさ。こういうふうでは、やはり幕府の末路と同じようになるかもしれないから、しっかりやってもらいたいものだ。おれなどは、昔からずるいやつだによって、この六畳の室に寝てばかりいるけれども。」(『海舟座談』)

我々は、邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまった少年なのかも知れません。

今日はこの辺で。


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